史料的価値は無いです(^^;


月と十字架の狭間で


夜空に銀の月が昇る。
スルタンと遠征軍の出陣した夜は、それまでの騒々しさがうそのように静まり返り、眠る街も宮殿も、月明かりの中、じっとうずくまっていた。
私は、宮殿のテラスから、はるか北方を眺めた。思い出深き我が故郷にして、遠征の目的地、ワラキア公国を。
遠征。そう、もうすぐ北で戦が起こる。月を冠するものと、十字架を冠するものの戦いが。

宮殿から見下ろせば、私の眼前には「栄光の都市」コンスタンティノープルが広がっている。
かつてはビザンツ千年帝国の都、そして今はオスマントルコ帝国第一の都市。
9年前のその日、ビザンツはローマ以来の1000年余の歴史に幕を閉じ、新たな支配者が街に入った。統べるものが皇帝からスルタンへ変わり、教会はモスクへ変わった。
だが、それでも衆庶は生きていた。生きていかねばならなかった。
彼らは慎ましく、忍耐強く、そしてしたたかだ。
崇める神が変われど日は昇る。私は彼らのたくましい姿を見て、それを知った。
良い国とは、彼らにとっての良い国でなくてはならないはずだ。
その国が十字架を冠するか三日月を冠するかではなく、彼らの笑顔が満ちているかどうか。それが大事なのだ。

アブル・ファトラは私に言った。
「おまえにワラキアを与えてやろう。その代わり、今日よりおまえは外へ向かっては男として振る舞うのだ。」
それが交換条件でなく半ば強制である事は、私には良く分かっていた。スルタンが、私のからだに流れているワラキア公王家の血を利用しようとしている事も、私には分かっていた。
私は問うた。
「かの地の人々に安寧をもたらす事が出来ますか。」
彼は頷いた。私は彼の瞳に誠実を見た。私は彼の駒となる事を承諾した。
歴史は、私を裏切り者、背教者として記録するだろう。それでもいい。私には為さねばならない事があるのだから。

兄を、現ワラキア公国王を倒す。
『ワラキア公王ヴラド・ドラキュラ』の名を過去のものとする。
ワラキアの人々の命を救い、笑顔を取り戻したいから。

兄がワラキアで続ける虐殺。万をもって数える骸。ルーマニア人、ドイツ人、トルコ人、ジプシーたち。兄は、誰であれ殺し続ける。そこに人々の笑顔はない。
異教徒から国を守るためと兄は言う。欺瞞だ。どんな言葉を冠せども、虐殺が肯定されていいはずが無い。
骸の荒野に勝利の旗を翻しても、果たして誰が祝福するだろう。

スルタンが勝利を収めれば、ワラキアはトルコの支配下に入る。民族の独立は失われる。
だが人々の平穏は得られるだろう。帝国は、異教徒に対しても寛大だ。
私はそれを選んだ。人々がそれを望んでいるかは、わからない。
彼らに安寧が訪れるかも知れないし、私は間違いを犯していて、人々はそれをなじるかもしれない。
いずれにせよその答えが得られるのは、まだ先だろう。
だからそれまでは、進み続けよう。
止まることなく。くじけることなく。
自分を信じて。笑顔を信じて。




ヴァルカン攻防史年表より転載


西暦 出来事
1389 コソボの戦い。
セルビア・アルバニア・ブルガリア連合軍、オスマントルコのムラト1世に敗退。
1393 オスマントルコ、ブルガリア併合。
1396 ニコポリスの戦い。
ヴァルカン諸国、フランス、イギリス、ドイツ連合十字軍、オスマントルコのバヤジット1世に惨敗。
1444 ヴァルナの戦い。
ポーランド王ウワディスワフ・ローマ教皇使節チェザリーニ枢機卿、トルコ軍に敗れ戦死。
ヴァルカン十字軍は壊滅し、ヴァルカン中央部へのトルコの覇権拡大。
1448 ヴァルカン十字軍・龍の騎士団長であるワラキア公国王ヴラド悪魔公、スルタン・ムラト2世に捕縛される。
二人の実子(後のヴラド・ツェペシュおよびラドゥ美男公)を人質に差し出し、開放される。
ワラキア公国、親トルコ政策に転換。
1449 ヴラド悪魔公および嫡男ミルチャ、ハンガリー王フニャディ・ヤーノシュによって、バルテニ沼沢地の修道院(現存する)にて暗殺される。
1451 ヴラド悪魔公の次男、ヴラド・ツェペシュ(ヴラド・ドラキュラ、トルコ名カズィクル・ベイ)、第一次ワラキア統治(10月〜11月まで)。
1453 コンスタンティノープル(現イスタンブール)、オスマントルコの攻撃により陥落。
東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝コンスタンティヌス・パライオロゴス11世戦死。
東ローマ帝国(395〜)滅亡。
1456 ヴラド・ツェペシュ、第二次ワラキア統治開始。
モルダヴィア公国、トルコに朝貢する。
この頃までに、ヴァルカン半島のほぼ全域がオスマントルコの支配領域となる。
1459 オスマントルコ、セルビア併合。
1460 ヴラド悪魔公の三男、ラドゥ美男公(男性名を名乗るが実際は女性であった)、トルコ側の正式なワラキア公位請求者として擁立。
後見人はオスマントルコ帝国スルタン・メフメット2世。
1462 スルタン・メフメットのワラキア戦役。
ワラキア公国王ヴラド・ツェペシュは、アルジェシュ河畔の戦いで敗北。
ハンガリーへ落ち延びたところで、同国王マーチャーシュ・コルヴィヌスによって捕縛。王都ブダ(現ブダペスト)にて幽囚の身となる。
ラドゥ美男公、ワラキア公国王に即位。ワラキア公国、事実上トルコの支配領域となる。
 



1878 ワラキア、モルダヴィア、オスマントルコ帝国よりルーマニアとして独立。首都ブカレスト。
1922 オスマントルコ帝国滅亡。